『ある日わたしは』(1959)

(監督 岡本喜八/脚本 岡田達門 井手俊郎
新年はじめの映画感想。いつもながらやりくり下手なもので、映画館に行く機会が少ないため旧作に偏りがちですが、よろしくおつきあいのほどを。
日本映画専門チャンネルでは現在「―映画のすべて、ここにあり―娯楽のアルチザン 監督岡本喜八」と題した特集番組を放送中。石坂洋次郎原作の青春映画『ある日わたしは』もその一つ。『隠し砦の三悪人』で雪姫を演じた上原美佐の初主演作でもあります。
上原は上京して洋裁学校に通う二十歳の女の子。友達の山田真二水野久美と関係をもちながら自分を求めるのに愛想をつかし、気障な医学生宝田明に心ひかれてゆく。だが双方の両親には、二人の恋を阻む辛い過去があった…。
洋裁学校の生徒という設定は特に生かされず、教室で絵を描いたり下宿先にトルソーが置いてある程度。サクセスストーリーより恋愛が優先されます。下宿先はふつうの日本家屋。それはいいのだけど、くすんだ青で統一した家具のせいで変に薄暗い。カーテンも青灰色のマーブル模様、棚には「いやげもの」めいた人形を並べるなど、女子らしさに欠けておりかえって親近感が湧く。上原が一人で窓辺に威勢よくたたずんでいるときの、ステテコみたいな室内着なんかも。油断しきっている感じが良い。
この上原の部屋を、母親や山田ばかりでなく彼を愛する水野、宝田の父親である上原謙までが訪ねてくるのですが、時には上原の許しもなしにあがりこみ泥酔して寝転んでいたりと、女子の一人暮らしにしては無用心。朗らかな性格の上原らしいといえばらしい。上原謙と二度目に逢う場面では、彼が厚かましくも「宝田と寝たか」と聞いたり、上原の額に信頼の証としてキスします。それを微笑んで受け流す上原の「了見」の広さにも驚かされる、のほほんと艶めいた挿話です。
基本はコメディタッチの青春映画ですが綺麗ごとばかりでなしに、男女間のどろどろした葛藤劇も描かれます。何気ない日常の陰では「愛欲」が縺れあい、理不尽な裏切りや別れが起きる。上原は信じていた男に押し倒され、男の側も自分の投げやりな行動のせいで将来が決まるという、のっぴきならない事態に振りまわされる。また奇妙なめぐりあわせにより、家庭を守るだけが能の、まじめだと思われていた人物の昔の素顔が明らかとなる。上原は宝田と相思相愛になった後もこの陰にひきつけられ、いつか自分たちも駄目になるのではという不信や周囲への配慮が先だち、思うように幸福をつかめない。
上原を窮地から救うのは、意外にも陰を生みだした当の「昔風」の建前です。それは親が子供を絶対的に縛りつけるのをよしとするもの。岡本監督のデビュー作『結婚のすべて』で失恋した雪村いずみを元気づけるのも、親が薦めた見合い相手でしたが、上原の父親と宝田の両親もまた、上原たちが過去のしがらみから解放されるようにと、保守的な価値観を逆手にとって交際を命じます。親世代の上原たちに対する愛情と、故人への赦しに胸を衝かれる、洒落た顛末だと思います。
多くの岡本作品同様、「意識の流れ」手法と呼びたくなる編集の妙やテンポの良さに圧倒される、それでいて多少妙ちきりんなところもあるけれど女子の心理や、恋愛にまつわる歓びと不穏さをこまやかに溶かしこんだ映画です。

『海鼠の日』『わが子キリスト』他

たくみと恋 (岩波文庫 赤 410-0)

たくみと恋 (岩波文庫 赤 410-0)

不運な女

不運な女

海鼠の日―角川春樹獄中俳句

海鼠の日―角川春樹獄中俳句

「足の爪切つて残る日数へをり」
「晩年のなかりし父よ雑煮椀」
「夢の世の海鼠となりて三日かな」
「わが骨に雪降る夜の鉄格子」
「書かれざる遺書もあるべし十三夜」
「われもまた過客なるべし春の暮」
「獄を出て花の吉野をこころざす」
わが子キリスト (講談社文芸文庫)

わが子キリスト (講談社文芸文庫)

「群像」2010年1月号「〈特集〉戦後文学を読む〔2〕武田泰淳」とあわせて読む。何か感想を…と思ったけど、どうも鼎談にひきずられてしまうので止める。鹿島田さんの「受肉」の話に膝ぽん。息子が父親になる/なれない話は数あれど、この小説では父親が息子になり代わり、しかも「足なえ」の幼児を歩けるようにするという奇跡を起こす。痛みからくる幻覚、もしくは息子への愛情ゆえの捏造か。暗に悪意をこめた信仰告白か。謎めいた結末にも確かに「両義性」が宿っている。
「王族と異族の美姫たち」「揚州の老虎」を併録。
宮沢賢治ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』(金の星社)も読了。ホロタイタネリ、ペンネンネンネンネン・ネネム、シグナレスなどの不思議な響きを持つ名前や擬音の多用から、宮沢賢治は耳の良い小説家だと思った。が、2頁きりの小説「家長制度」では、他の童話と違って音も声もかき消されている。「大黒柱」の切れ端のような「主人」が支配する家では、客の「私」でさえ余計なことがいえないほど息苦しい、静粛な雰囲気がたちこめている。私はしばしば視界をさえぎられる。主人やその家族が何をしても、どこか遠いところで起きたできごとのように、「らしい」としか感じとれない。息子たちは音もなく帰宅し、厩の近くで気配なく眠っている「らしい」。「一人の女」が洗濯し、食事のしたくをしている「らしい」。女が主人の妻か下女かは明らかにされない。座りこむ主人と対比される、命じられるがまま家のなかで立ちはたらく女であるとしか知れない。ふいに皿を落とした音がする。主人はその方へ歩いていき、またもとの場所に座る。女はぶたれた「らしい」。主人が音もさせずに殴ったとわかるのは、「土間がまるきり死人のようにしずか」だから。音のなさもやはり音のなさでわかるのである。そして私は「まったく身も世もない」心地で、暴力的な沈黙に耳をすますしかない。題名にストレートな制度批判をこめながら、実際には何もできないでいる者の虚無感をたたえた、悪夢のような掌篇。
他に「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」「カイロ団長」「楢ノ木大学士の野宿」「シグナルとシグナレス」「ガドルフの百合」「或る農学生の日誌」を収録。

『カールじいさんの空飛ぶ家』

カールじいさんの空飛ぶ家』(2009)
アポロシネマ8で。本編前の『トイ・ストーリー3』の宣伝でもう胸が熱くなった。短篇「晴れときどきくもり」の汚れ仕事(?)を引き受けた者同士の友情、無声映画風に綴られるカール爺さん夫婦の回想、秘境に家を不法投棄するラストに至るまで年甲斐なく泣きつづけた。いや不法かどうかは知らないけど、結構な数の家具を撒き散らしたものだなと。大事な思い出がつまった家を「たかが家だ」と笑顔で言い放つ心変わりも沁みた。死んでもなお夫の尽力で夢をかなえる妻エリーは途方もない果報者だ。もちろん夫も。幼い頃からカールを冒険へと駆りたて添い遂げた彼女は、共通の趣味で盛りあがれる恋人を求める消極的なおたく男子のドリーム。誤解からカールと敵対するマンツは『グラン・トリノ』の排他的なクリント爺さんのようにライフルが似あう。老いた男たちによる杖がしなり入れ歯が舞う壮絶な決闘に燃えた。犬が人語を解する装置を発明するほどの天才なのに数十年かけても怪鳥を捕まえられない間抜けさはどうかと思うが。間抜け面といえば鼻が栗まんじゅうみたいな犬のダグ。獰猛な犬の群れに混じっているのも謎なわさわさに膨れた奴だが、肥満児ラッセル同様とてもチャーミング。エリザベスカラーは犬的にも滑稽で恥ずべきものと認識されていると知れたのも意外な収獲だった。

シークリット・ヌーネス『ミッツ ヴァージニア・ウルフのマーモセット』

いまや、ピンカの毛に秘められた魅力は蚤だけではなくなった。読者の皆さんは覚えているだろう。ミッツは寒がりだった。彼女はほどなく家中で一番暖かいところを見つけた。普段より寒く湿気の多い夜は――イギリスの夏には、寒くて湿気の多い夜がよくある――、ウルフ夫妻は暖炉に火を焚いた。ヴァージニアは椅子に座り、読書したり、日記を書いたりした。レナードは椅子に座り、やはり書き物や読書をした。そしてピンカは炉の前の敷物に寝そべって眠り、ミッツはピンカに体をすり寄せて丸くなった。時には二匹の動物は、椅子やピンカの篭のなかで、抱き合って鞠のように丸まっていた。

『神の息に吹かれる羽根』の著者シークリット・ヌーネスはヴァージニア・ウルフの「熱烈な愛読者」だという。憧れの小説家のように書きたい、その文章を隅々まで「食べている」ように模倣したいと大人げない願望を持つのは、物書きである限り自然ななりゆきだろう。ヌーネスの場合それに飽きたらず日記や書簡をもとに、マーモセットという小さな猿「ミッツ」の視線を借りて、ウルフ自身と家族の肖像を描くことを選んだ。偽伝記、つまりはフィクションの登場人物として蘇生したウルフは大好きな散歩をし、街の人々を観察して物語を編み、作品の評価に対して一喜一憂する。友人の家の庭や趣味をこきおろし、戦争で息子をなくした姉を憐れみ、ナチの暴虐におののきながらも夫レナードとミッツや愛犬たちと静穏な日々を過ごす。レナードもまた物書きであり、ウルフとは愛情だけでなく、書くことへの止みがたい欲望を絆として結ばれている。それこそがこの夫婦にとっての至福といえる。危機的状況、病や老いがウルフの創作意欲を殺ぐことはありえない。日記でもなんでもとにかく書きまくり、現実を潔癖な性分と一流の誇張癖で捉えなおす。ありがちなフレーズだが「書くことは生きること」を実践し続ける激しい姿勢には脱帽させられる。著者はウルフの身振りを単純に賛美せず優しく突き放すことで、全篇に渡ってユーモアを獲得する。また執筆するウルフに対するミッツの視線を導入することで、これがただの伝記ではなく著者の想像力に補完されたフィクションだと読者は思い出す。そして観察する人ウルフがミッツによって一個の印象に収まるという魅惑的な仕掛けに感嘆する。

ミッツ―ヴァージニア・ウルフのマーモセット (フィクションの楽しみ)

ミッツ―ヴァージニア・ウルフのマーモセット (フィクションの楽しみ)

『大怪獣バトル ウルトラ銀河伝説 THE MOVIE』

テアトル梅田で。つっこみどころはヲタ同士のお喋りで言いつくしたので最小限にとどめたい。でもやっぱりキングとウルトラの母の声優の演技は酷かったと声を大にして言いたい。小泉純一郎のメロウな囁きは気色悪いし長谷川理恵はなぜ起用したと詰め寄りたいほど役に合っていない。他の声優が頑張っているぶん勿体ない。またワイヤーアクションを多用した戦闘場面が単調。どのシチュエーションでも似たような飛んで殴って蹴るの連続でそれが延々と続きドラマ性を押し殺していて退屈した。先に部下をベリアルと戦わせて全員倒れるまで手出しをしないタロウにもがっかりした。ここは真っ先に齧りついてしかるべきだろうというのは光太郎と融合したタロウが好きなファンの愚痴。大人になるって狡くなることなのね。ただ身を呈して最後の希望を守るなど予想以上の活躍をみせたので帳消し。メビウスが合体怪獣との最終決戦でメビウスダイナマイトを使うのも師匠タロウの敵討ちみたいで良かった。それにしてもセブンの息子ウルトラマンゼロの柄の悪さはどこから来たのか。生まれ育った環境や教育方針に問題があるのじゃないか。このゼロのエピソードは不良少年が田舎に帰って父親と和解・更生する類のものなんだろうな。感動の父子再会ではゼロが「いちいち素性を隠さんでもええやんけぼけ」などと食ってかかるのではと冷や冷やした。母親が誰かは謎のまま。アンヌに黙って隠し子疑惑は次に持ち越し。と与太話はさておき怪獣軍団をひとりで殲滅する無敵っぷりとブレストファイヤーには衝撃をうけた。おかげで折角復活したダイナの影も霞んでしまった。なぜか金髪になり年取った割にアスカのおばかキャラが健在なのは嬉しかったけど。地味な助っ人外国人選手という感じ。超ウルトラ8兄弟は苦手だけどまだ個人の物語があったなと見返したくなった。一瞬だけ出演のムサシが全く容姿に変化がないのも凄い。コスモスになってベリアル改心させろよと。世代的には昭和より思い入れのある平成ウルトラヒーローが総出演する映画をみてみたい。ちなみにこの映画で最もウケたのは暴走したレイをとめようとしてZAPクルーが一丸となってしがみつき遂にはコニタンが正拳突きをかます場面。他にやりようがないのかと唖然とさせる熱血コントだった。

『仮面ライダー×仮面ライダーW&ディケイド MOVIE大戦2010』

梅田ブルク7で。ワンピ客の波に呑まれながらもなんとか初日に鑑賞。不完全燃焼な夏の映画よりは楽しめた。イイ科白だけ残してさっさと退場したGACKTと違い吉川晃司がスカルに変身して戦う場面もあるし。翔太郎と別世界のおやっさんとの「再会」は素直に感動。シンプルな筋のWとの相乗効果か相変わらずわけわからん(良い意味で)ディケイドパートにも一見まとまりができていた。「ディケイドに物語はない」宣言には本編で作り手の言い訳を聞かされるはめになるとはと度肝をぬかされたけど。既に完結した物語を再活性させるお祭りそのものであるディケイドの旅は本当終わる気がしない。少なくとも結局鳴滝って何者なのよという謎が解けるまでは。単なる粘着アンチの象徴でしたでFAぽいけど。Jのウルトラ怪獣化、「イカ で ビール」の天丼、お約束のスリッパ叩き、「ちょっとくすぐったいぞ」リレーもウケた。東映三角マークが出るたび観客の子供たちが「えっもう終わり!?」とまんまとどよめくのにもほのぼのした。