『灯台守の話』『神の息に吹かれる羽根』他

読書めるも。

ゆきこんこん物語

ゆきこんこん物語

女の足指と電話機―回想の女優たち

女の足指と電話機―回想の女優たち

灯台守の話

灯台守の話

正直、作者の物語への「絶対的な信頼」にはついていけないところも。自分は「物語」によって悲惨な人生から救われた、だから断固支持する、というのはわかるのだけど。私はそこまで「物語」の力を信じることができない、というか両極端な感情(愛憎)を持っているので。「物語」は愉悦をくれるものというだけでなく、自分も他人も傷つける怖れのある危険物だと考えているから。でもウルフみたいに心地よい文章と、前置きなくさらりと同性愛を語る場面には感動。デビュー作を既に読んで作者の性嗜好を知っているから、すぐにそれとわかってしまうのだけど、そうでない人は「あなた」が女言葉を使うところで面くらうのではないだろうか。
神の息に吹かれる羽根 (フィクションの楽しみ)

神の息に吹かれる羽根 (フィクションの楽しみ)

題名は聖ヒルデガルドのことばからきている。語り手の「わたし」は中国系パナマアメリカ人の父親、ドイツ人の母親とのあいだに生まれた混血者。複雑な家庭環境に悩まされ、心を病むほど愛情に飢えている。バレエに夢中になるも挫折。やがて移民相手の語学教師になり、ロシア人男性との不倫の恋を経て上海行きを決める。これらの過去はわたしじしんだけでなく、両親や恋人の人生で構成されている。というより、他者にまつわる記憶の断片がわたしを規定している。わたしの外側にあったもの、見聞きしたものの詳細をきわめた寄せ集めでできている。わたしの物語は重層的な他者の物語。本書はこのいまさら強調するまでもない、「あたりまえのこと」に貫かれている。そして読者は、母国に郷愁をいだきながら帰れるわけもなく逸脱した生き方しかできない、家庭さえ癒しにならない移民たちの苦しみをわたしとともに追体験する。

『指』(1982年)

(原作 松本清張/脚本 八木柊一郎/監督 出目昌伸
火曜サスペンス劇場」史上最高視聴率を獲得した作品。
名取裕子は偶然知りあった松尾嘉代と恋に落ちる。二人は松尾のマンションで逢引を重ねる。だが名取は次第に松尾を疎ましく思うようになりある晩首を絞める。未遂に終わり一応和解したものの、翌日松尾は睡眠薬の飲みすぎで死んでしまう。数ヵ月後。名取は目黒祐樹と結婚。目黒が〈偶然〉選んだ松尾のマンションで暮らすことに。しかも以前管理人として二人を監視していた吉行和子が隣に引っ越してくる。吉行は名取が松尾を置きざりにしたことを詰り何度も脅迫する。名取は我慢できず凶行におよぶが…。
過去の罪が露見するのではと疑心暗鬼にかられた者が新たな悪事に手を染める。綻びを自らこじあける。『共犯者』(1958年)と同じパターンだが、特徴は同性愛が事の発端にあること。松尾は二人がはじめて逢った夜、さっそくものにしようと名取の手に真紅のマニキュアを塗った手を重ねる。一緒の寝台で寝るよう誘い、明かりを消すと「私たち会えてよかった…好きなようにして」といい裸で抱きあう。名取が松尾の額にくちづけすれば松尾は名取の指を吸う。だが名取が拒絶をしめすと途端に態度を硬くし平手打ちを浴びせる。飼い犬のチワワを殺せ、そのイヤリングは好きな女にもらったのだろう恩知らずめと執拗に絡む。この狂的な同性愛者を演じた松尾は「80年代サスペンスの女王」の称号にふさわしく、名取にねっとりと迫りながらも凛とした貫禄がある。
また吉行和子の悪女ぶりも良い。最初はひっつめ髪で文士のような丸眼鏡をかけた覗き魔のおばさんとして登場するが、新婚の名取を強請るときにはおかっぱ頭に和服の未亡人になっている。松尾を模倣するようにマニキュアで飾った手を名取の手に重ね、金だけでなく肉体関係も要求する。常に皮肉な笑みをはりつけ、隙あらば名取にべたべた触れて毒気を吐くおぞましさは見事。
もちろん主演の名取も二人に劣らず胸をさらし松尾を押し倒すなどの身体を張った熱演をみせる。吉行を巻尺で絞め殺したあとますます情緒不安定になり、チワワを床に叩きつけて殺害(この憐れなチワワ、バスケットにつめられている間じっと動かずにいるのが本当に死んでいるようで不気味)。次いで刑事(福田豊土)には犯罪の証拠、麻痺した指を見破られる。それは吉行を殺し又松尾の指と触れあった、逃げきれない過去の軛である。パトカーで連行される名取にエンドクレジットが被さる。薄く唇をひらいた茫然自失の表情にはホステス時代と違った生々しい妖艶さがある。ちなみに主題歌は岩崎宏美聖母たちのララバイ」。
名取は若いころ外国人と交際していたことがあり、北海道で彼を待つ場面では質素な生活ながら喜んで懸命に生きる姿が描かれていた。目黒との関係もいたって普通に幸福なものだ。だが松尾にひきずりこまれた同性愛の世界は男女のそれと違い、異常な見世物としての役割が与えられている。偏見か三面記事的興味から生まれたような浅薄な設定だがここは目をつむるしかない。名取と松尾の脂っこくも美しい抱擁が救いだ。また目黒が松尾のマンションを新居に選ぶという偶然は天の裁きというべき強引さがあって面白い。偶然の連鎖を断ち切り忌まわしい過去を葬ろうとして更に深みにはまる。この人間の悪あがきを描くことこそ清張作品の醍醐味といえる。
名取裕子が清張作品について語るインタビュー。
http://mytown.asahi.com/oita/news.php?k_id=45000240901030001
2006年版。ネットの評価をみるとこちらの方が過激らしい。

松本清張スペシャル 指 [DVD]

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いとうせいこう+奥泉光「文芸漫談」シーズン3番外編「傑作小説を笑う 夏目漱石『三四郎』」

昨日、大阪府松原市文化会館で行われた文芸漫談を観て来ました。ナマ蝶ネクタイいいね。
いとうせいこうは意外に精悍でスリムなスタイル。奥泉先生もとても53歳とは思えない、背広に着られた感あるガリ勉坊や風味な愛嬌をふりまいておりました。前段のお喋りではいきなり奥泉先生が松原市という地名をど忘れ。お茶目。続いて大阪の居酒屋では一人でゆっくり飲み食いできない問題について。見知らぬ客が入れかわり立ちかわり話しかけてきては地鶏の旨さなんかを解説する。ホスピタリティが高いのはいいんだけどさあ、と。あるある。でも奥泉先生も話しかけ好き。公園で自転車の練習をする親子相手に、「ためしてガッテン」で学んだ「知識を共有化」しようとしたり。まさに先生根性。漱石三四郎』の漫談では主に奥泉先生が自説を披露し、それをせいこうが的確にフォローして話を盛りあげていました。詳細はいずれどこかに掲載されるだろうことを期待して省略。取りあえずおおまかに紹介すると。『三四郎』は『坊っちゃん』と並び称される青春小説だが、実はこのうえなくわかりにくい。世界を一つの絵(夢)のように断片化する、瞬間ごとの美しい場面を提示することに意義を置いているため、話の筋を捉えにくい複雑な小説になっている。また新聞連載という媒体を意識した、『なんクリ』を彷彿とさせる風俗小説でもある。主人公のキャラ設定も巧い。三四郎がエリートとはいえ世間ずれしていない田舎出の「ぽんこつ野郎」だからこそ読者も安心して読める。ちなみにせいこうは三四郎を悩ます元凶である美禰子が嫌いだそうで。若いころはその謎めいた魅力に惹かれたけれど、今では本を壁に叩きつけたいくらい気に入らないと。奥泉先生は満更でもない様子。先生の漱石愛はこのヒロイン萌えにあるのではないかと邪推しちまいました。締めくくりは美禰子のうさんくささをフルートで表すという暴挙。お二人のコンビプレーをたっぷりと堪能した一時間半でした。

世界文学は面白い。 文芸漫談で地球一周

世界文学は面白い。 文芸漫談で地球一周

『わるいやつら』(1985年)

(原作 松本清張/脚本 大野靖子/監督 山根成之
女たらしの病院長・古谷一行は、名取裕子と結婚するために悪事を重ねるが…。「霧企画」制作による「火曜サスペンス劇場」作品。ナイトクラブで「聖母たちのララバイ」のピアノ演奏が流れる内輪ネタあり。加藤治子演じる藤島チセは洋服店ではなく人形屋経営者に変更されている。物語は古谷のナレーションを挟んで進行するが、「横溝正史シリーズ」を思い出していつ「ぼく、金田一耕助です」と言いだすのやらとはらはらする(嘘)。まあでも実際古谷はいくら罪を犯そうと、温和な渋味のある声と人懐こそうな容貌から善良さがにじみでている。ここでの善良さとは付け入る隙があるということ。そのため最終的に愛人のちあきなおみと加藤、本命の名取と友人で弁護士の原田芳雄に裏切られ、ひとり罪を背負うはめになるのも納得できる。原田のコミカルな演技も、滑稽なほど隙だらけな古谷と釣りあいが取れていて良い。刑事役は小林稔侍と三谷昇。黄緑色のニットキャップを被った半病人みたいな三谷はともかく、小林も古谷の容疑を視聴者向けにまとめるだけの出演。ちあきと加藤は熱しやすく冷めやすい年増女の醜悪さを完璧に引き受けている。加藤の真っ赤な口紅は、同じく清張作品『最後の自画像』で蒸発した夫の帰りを待ち、暗い部屋で念入りに化粧する妻を思わせる。ただこちらの方は耐えることなど知らず、古谷が泊まる宿に押し入っては浮気の証拠を探ろうと枕の匂いを嗅ぎ、警察の取調べで弁当を指しだされても「食べられないわよ不味くて!」と割り箸を投げ捨てたりと、堂々たる凄みがある。ちあきも古谷に自分を抱くよう強要したり、絞殺されかけ地中に埋められても甦るなど妖怪然としている。古谷は彼女らの罠にはまってはじめて、自分が手にかけた泉じゅんだけが本気で恋してくれたと気づくが後の祭り。網走刑務所へ向かう列車のなかで雪を眺めながら嘆く科白「これがぼくの終点の風景」には、悪党になりきれず「損をした」者の虚脱感がこもっている。

『品格と色気と哀愁と』『人間豹』他

最近読んだ本をメモ。
余裕ないので手短に。

ジェイン・オースティン料理読本

ジェイン・オースティン料理読本

[rakuten:book:11928255:detail]
収録作品は「病蓐の幻想」「白晝鬼語」「人間が猿になった話」「魚の李太白」「美食倶楽部」。
人間豹 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

人間豹 (創元推理文庫―現代日本推理小説叢書)

友達は乱歩初体験がこれだったせいで明智をヘボ探偵と思いこみ、他のを読む気が失せたそうな。小林少年が二分以上息を止めていられるという小ネタは、長田ノオト『屋根裏の散歩者』にも使われていた。
品格と色気と哀愁と

品格と色気と哀愁と

生まれたら戦争だった―映画監督神山征二郎・自伝

生まれたら戦争だった―映画監督神山征二郎・自伝

映画の魔

映画の魔

公開当時の観客がこのブヨブヨを見て素直に連想したのは何だろうか、と想像してみる。銀白色に光る半液体。水銀ではないだろうか。メチル水銀が脳に入ることで発症するのは水俣病だ(「ゴケミドロ、お前は誰だ」より)。

なるほど。みたまんまともいえる。世間ではとうに知られた説なんかしら。

読んだのは新潮文庫。収録作品「性に眼覚める頃」「ヒッポドロム」「音楽時計」「ゴリ」「チンドン世界」「医王山」「生涯の垣根」。表題作は「私」が(脳内)観察する女たちの濃厚な色気にむせかえる一篇。「ゴリ」。宇宙猿人は関係ない。流れ星銀よろしく闘犬ブルドッグ)対熊の死闘を描く。「生涯の垣根」。自慢の庭とともに植木屋の「色白なきんたま」に魅入られた男の多分「変愛小説」。

アイザック・バシェビス・シンガー『よろこびの日―ワルシャワの少年時代―』

ほとんど知られていないけれども、喜劇も悲劇もともに豊富なある世界のありさまをつぶさに見てもらうのがわたしの念願です。それは知恵とおろかさ、激しさと優しさに満ちた特色ある小世界なのです。

I・B・シンガーはポーランド生まれのユダヤ人。第二次世界大戦が起きる直前、反ユダヤ主義から逃れるため渡米。貴重なイディッシュ語作家として活躍し、1978年ノーベル文学賞を受賞。『ニュー・ゴシック ポーの末裔たち』の感想でもとりあげた彼の短篇「敵」は、人種差別や時代性に限定されない、誰もが巻きこまれうる暴力の理不尽さを描いている。ただ男二人が子供のけんかのように取っ組みあう場面や、語り手のまぬけな発言などにみられる喜劇的要素が悲惨に流れがちな物語をせきとめているのも特色といえる。『よろこびの日』もいずれ来る破滅の日をほのめかしながらも、基本は平和に暮らす人々を感傷的なユーモアをまじえてスケッチすることにある。
『よろこびの日』はワルシャワを舞台とする「自伝風物語」だ。シンガー少年は好奇心旺盛ですぐに両親を質問ぜめにする。世界がつくられるより前に何があったのか。宇宙に果てはあるか。虫は誰から命をさずかり何を食べてどこで眠るのか。そんな厄介な質問をしては「大人になればわかる」とたしなめられ、構わず今度は天国と地獄について思い悩む。父親はユダヤ教のラビであると同時に判事をして生計をたてている。神秘主義に傾倒するあまり母親と衝突することも。母親も合理性を重んじながら子供の無事をまじないに託す点でお似あいな夫婦。少年は彼らに見守られながら戒律に従い時に踏みはずし、ほとんど近隣の同胞とのみつきあい、ヘーデル(ユダヤ人学校)でタルムードやイディッシュ語を学ぶという特殊な環境で成長する。小説中、数々の耳慣れないことばや異質な慣習が出てくるけれど、少年の心情に寄りそうようにして読者もなじんで行く。
各エピソードも在りし日の異質な「小世界」のざわめきを伝えてくれる。たとえば「よろこびの日」。題名に反して少年は門番に追いはらわれたり変な果物を食べたりとさんざんな目に遭う。芥川「トロッコ」のように冒険に熱中しすぎた末、家への遠い道のりを釘が刺さった靴で歩きつづけねばならない。「洗濯ばあさん」は異教徒だが珍しく少年一家のもとで働いている。少年に会うたび「キリストそっくりだね」と失言する。病に倒れても最後の仕事をやり通す婆さんの気高さが感動を誘う。「乳製品屋のレブ・アシェル」はサムソンのような剛力と、聖典の朗唱をまかされるほどの美声の持ち主。生まれついての善人で寄付も出し惜しみしない。だが少年一家が戦争中にワルシャワを去った後の彼の命運はわからない。「したたかな連中」で少年と喧嘩した仲間の行き先ならはっきりしている。物語後半にはその行き先へとすべてが通じるような暗い未来が迫る。戦争を直接描くことはない。母親の田舎に引っ越した少年をとりまく美しい自然、貧困にあえぐ人々やヘブライ語を学ぶ子供たちの一見静かな日常を書きとめること自体が、著者なりの戦いの証となる。ひき離された他者、または死者を過去から呼び戻す。物語に定着させることで不滅の魂をこめる。というと大げさかもしれないが、著者の祈りは底ぬけに真摯なものだと思う。
最後の「ショーシャ」は小説家となった元少年ワルシャワへ帰り、幼なじみのショーシャに会いに行く話だ。彼はショーシャの娘に昔読んだ天使と悪魔の物語を聞かせる。物語は彼が育った場所と同じく変わらない喜びを与える。語りつづけるかぎりは誰かがそれを受けとめて生きるだろうこともこの小説は教えてくれる。

よろこびの日―ワルシャワの少年時代 (岩波少年文庫)

よろこびの日―ワルシャワの少年時代 (岩波少年文庫)

『ニュー・ゴシック ポーの末裔たち』

twitterはやめちまいましたが、ブログ更新はぽつぽつ続けます。
鈴木晶・森田義信編訳『ニュー・ゴシック ポーの末裔たち』読了。
編訳者あとがきを要約すると。ミニマリズム(ニューリアリズム)は、自分の目に見える範囲の日常だけをこと細かに写生する。対してニューゴシックはミニマリズムが回避しがちな「呪われた部分」、現実の中の隠された「闇」に挑む。いわば知の届かない魔の領域を注視する。元々アメリカ文学にはポーやホーソーンなどのゴシック的伝統があるが、ニューゴシックにはそれらが内包していた「道徳の勝利」「魂の救済」などの説教臭い主題はない。そのような「大きな物語」からは既に切断されている。またスティーヴン・キング、クライヴ・バーカーのようなモダンホラーとも区別される。モダンホラーは「闇」にわざわざ吸血鬼やゾンビと名づけて血肉を与える。どれほど残酷な身振りが描かれようと、結局は理解可能な恐怖を読者に提示する。ニューゴシックは掴みどころのない「闇」そのものを深化させる。
以下、三作品をつまみ読み。
パトリック・マグラー「監禁」。「わたし」は子供の頃から刑務所の看守になりたいと夢見ていた。悪を忌み嫌い、社会から隔離すべきだという信念から南ロンドンの専門学校に通うが、刑罰史の講師パーキンズから「ベンサムの円形刑務所」について教わるうちに、彼に激しい興味を持つ。家庭をも監視し、彼が不倫していると知ると、悪を抹殺せんとする意志と、彼の娘に対する憐れみからある事件を起こす…。尋常でない将来の夢や積極的な孤立、ストーカー行為、年老いた父母をこまめに世話しながら二階の部屋に錠をつけて監禁したりと、「わたし」を得体の知れない陰を背負う変人とみなすのは簡単。でもふと我にかえったように常識に追随し、母親を優しく慰めたり講師に理解をしめそうとする、堅苦しく平静さを保った語りにこそぞっとする。
ジーン・リース「懐かしき我が家」2ページの超短編。よく晴れた日、彼女は川を渡って一軒の家にたどり着く。以前彼女が住んでいた家。表面上はほとんど変わらないが既に新しい住人が根づいている。マンゴの木の下にふたりの子供が居る。声をかけても子供たちは無視して家へと駆けこむ。そして彼女は致命的な変化に気づく…。頽廃を好むゴシックにはそぐわない、のどかな風景描写に驚かされる。硝子のように澄んだ青空。強い陽射し。白く塗られた家とマンゴの木。無邪気な子供たち。この小説がニューゴシックとして選ばれた理由は結末でわかるが、透明なファンタジーという印象は変わらない。けれど彼女が得たほんものの孤独もまたゴシックの本質といえる。
アイザック・B・シンガー「敵」。第二次世界大戦時、ユダヤ人のチャイキンは船でニューヨークへと旅だつ。他の外国人客を避けて食堂でくつろごうとするが、何故か専任のウェイターに毛嫌いされて食事もまともにできない。人種差別のせいかと疑うが、他のユダヤ人一家には親切に給仕しており、いっそうわけがわからず憂鬱に飢えるばかり。晩餐会の夜、チャイキンはデッキで「敵」と対決する。黙々と取っ組みあいをするうちに疲れて意識が朦朧とし、不意に「敵」を海へと放り出したような錯覚に陥る。そのまま一眠りしたあと食堂へ行くと、新しいウェイターに前任者のことをたずねるが言葉が通じない。その後二度と「敵」と会うことはなかったが、チャイキンは、自分に対する理不尽な憎しみにいつまでもとらわれていた…。時代状況、民族感情を根拠とする差別でもない、個人への闇雲な嘲笑や悪意だけが先んじてある。しかもそれをぶつけてくる「敵」は自分とほとんど接点がない。通り魔の犯行みたいないじめ、というと意外にありふれたできごとのようにも思える。妙なのはチャイキンの旧友、オカルト好きな語り手が「敵」をエーテル的存在、「星気体」だなどと名づけて理性的に(?)納得させようとすること。もちろんニューゴシックにおいては、「星気体」でもなんでもいいが、言葉ひとつで「闇」をまとめきれるわけがない。この能天気な語り手との馬鹿げたやりとり以外にも、所々に黒い笑いを散りばめてあるのも面白い。

ニュー・ゴシック―ポーの末裔たち

ニュー・ゴシック―ポーの末裔たち