『下女』(1960)

九条シネ・ヌーヴォで。ほうぼうで絶賛されているのを真に受けて、どれほど壊れた映画かと期待していたけれど案外、端正な映画でした。あれを端正と言いきる自分の感性がおかしいだけかも。物語は陳腐とさえいえる家庭崩壊劇ですが、登場人物たちの心がすさんでいく道筋をつぶさにとらえています。奔放にふるまう女工と下女=洋服/耐える妻=チョゴリの対比もわかりやすい。昔の日本映画においても、夫に浮気される妻は和服姿で描かれることが多いと思うので。目玉の怪奇演出も丁寧。ここぞとばかりに雷鳴が轟き、耳障りな音楽が容赦なく場を盛りあげ、ふとすると窓の外や階段に誰かが突っ立っている。罪をなそうとする親を睨む娘に度肝をぬかしつつも、異界と化した「家」でのできごとゆえ、予期していたもののように受けとめられる。衝撃の、というか茶番じみたラストも、ピアニストが象徴的な磁場のひとつである窓を向いて説教するあたり考え抜いてあるなと。下女ならぬ観客は見た、的に下種な欲望を指摘されては、でたらめな茶番に突っこむひまなく苦笑するしかない。
もっとも驚いたのは、1960年の時点で韓国がこれほど西欧化していること。わたしはかの国の歴史に無知なので、同時代の日本映画となんら遜色ない、洒落た服装の女たちがあらわれるたびにいちいち感心しました。家族が病んだ妻の寝台に寄りそい、なごやかにライスカレーを食べるのもいいですね。後の破滅との落差を強調する。儒教が根強く影響力をもつ社会で、夫の給料だけに頼らず妻が日々ミシンを踏んで稼いだ金で新居を建てる、そして夫婦仲が険悪になると今度は夫を捨てて家を出るための資金をつくろうとする、その潔い積極性も興味深い。もちろん女工たちと下女の暴走も、自殺から階段落ちにいたるまで、恐怖をつきぬけて呆然とさせられるほどの強じんな意志がこめられている。その呪縛をふりきり、ピアニストが妻に「魂」だけは捧げようとする場面がまた感動的。誰もが純粋におのれの欲望をつらぬこうとして半狂乱となり身を削る、たがのはずれたさまに大いに魅惑される映画でした。