『雁の寺』(1962)

2月のチャンネルNECOでは、「【特集】女優・若尾文子×監督・川島雄三」と題して、『女は二度生まれる』『しとやかな獣』『雁の寺』を放送していました。そのなかから川島監督らしさ、といってもわたしは有名な作品しか知らないのですが、「ちょっと狂騒的なところ」(双葉十三郎)がひかえめな、『雁の寺』についての感想を。
原作水上勉。第45回直木賞受賞作。水上が京都の瑞春院を出奔した経験をもとにしているとのこと。『雁の村』『雁の森』『雁の死』とつづく連作の第一部です。
洛北の禅寺「孤峯庵」には、襖絵師(中村鴈治郎)が仮住まいし、母子雁の絵を描いていた。彼の死後、妾である若尾はいまさら貧しい実家へ戻れず、今度は寺の住職(三島雅夫)に囲われる。また住職があずかる小坊主(高見国一)も、故郷の若狭へ二度と戻れない理由があった。高見は利発な働きものだが、無口で少し鈍いところがあり、住職からくりかえし折檻をうける。中学でも教練の行進を嫌がり、元僧侶の教師(木村功)の心配をよそに欠席を重ねる。若尾ははじめ高見を気持ち悪がるが、住職との情事を見られていると意識するうちに、彼に多大な関心を寄せる。若狭で高見を世話していた住職(西村晃)から、彼の出生の秘密を聞くと同情し、進んで身体をあたえる。高見はひた隠しにしてきた過去をあばかれたためか、住職と同じ俗物になりさがったように思うためか号泣する。ふっきれた彼は若尾に、庭へやってくる鳶について語る。鳶が木の天辺にこしらえた大きな壷には、半分生きた蛇や魚がうじょうじょしている、などと若尾をおどかして笑みを浮かべる。その夜住職は、仲間の僧侶や若尾にさえ何も告げず失踪する。「旅に出た」と高見は言うが、若尾は信じない。檀家の商人の葬式の後、学校をやめた木村が寺の「留守坊主」となると、高見は自分も寺を去る決意をする。若尾は、高見が失踪の理由を知っていると疑い、問いつめるが…。
神聖な場所によこしまな欲望がはりつめ、揃って堕落するというのは、ありふれた題材ですが、若尾文子の堂々たる存在感が、この映画を単なる通俗からすくいだしています。住職に腰をべたべたさわられ、白粉の香りを嗅がれ、むりやり身体を奪われてもすぐに受け流す、自分を見失わないしぶとさこそ本領。また寝みだれた姿、着物がはだけて脚がむきだしになるなどの露骨なお色気よりも、柔らかいが図太い、凛と通る声に個人的には惹かれます。火鉢で煙草を吸うのもさまになっている。『女は二度生まれる』でも、山村聡の妾となる芸者を演じていて、高潔さと俗悪さをあわせもつ、つくづくふしぎな女優だと思います。
でも主人公は若尾ではなく、小坊主の高見国一なんですよね。
物語は彼の苦悩と悪事を追う。
高見は「若狭の寺大工の子」と紹介されるけれど、実は「乞食谷」に住む白痴女が産み捨てた子で、父親が誰かわからない。そのせいで幼い頃は「捨吉」と呼ばれていた。養母の忠告どおり、雪深い故郷との縁を切り、過去を封じこめようとするが、頼みの住職たちにばらされる。一方、若尾も父親のない身で、実家には帰れず職もないため、寺で世話になるしかない。若尾が同じく帰る場所のない高見を憐れむのも当然といえます。が、彼が若尾に母親代わりとして甘えることはない。恋いしたうのは本当の両親だけであり、若尾の片手間の慰めをはねつけるほど、彼の苦悩は深い。
高見の孤独は『炎上』(『金閣寺』)の青年僧に通じるけれど、彼らの行動には隔たりがある。高見は青年僧のように、凝った理屈で寺を焼いたりせず、自分の思いを直接ひとにぶつける。映画の後半、それまで住職に叱られ学校を無断欠席し、若尾の色気のとりことなるばかりの愚図だった高見が、「完全犯罪」を成しとげます。実際の凶行がどのようなものかは、木戸に阻まれ、はっきりと描かれない。この映画では庭を見渡せるようひらかれた寺の障子戸、高見が住んでいた家の隙間があいた扉など、大抵は戸が外に向けてわずかながらでも開放されている。ただ肝心の場面ではふさがれている。つづく高見の行動も、夜の闇にまぎれていて、確かなことはわからない。葬式をすませた後、埋葬するために棺を担ぐひとびとの驚きや、棺の重さに耐えかねて踏み破れる橋から、はじめて何がつめられているかわかる。この一連の、曖昧に伏せられた演出のうまさには感心しました。若尾が母子雁を探す際の、襖の激しい開閉にも。戸に幾重にも阻まれているような焦燥が伝わってきます。
パートカラーのラストは、とんまな坊主が観光客に修復された襖を見せ、絵葉書買ってねと呼びかける、なにがなんだかという感じのもの。それでも『炎上』のような倫理的な決着はさせず、若尾や高見がどうなったかも明らかにしない、一転して破れかぶれにせよ核心を伏せることに変わりはない幕切れだと思います。