『海鼠の日』『わが子キリスト』他

たくみと恋 (岩波文庫 赤 410-0)

たくみと恋 (岩波文庫 赤 410-0)

不運な女

不運な女

海鼠の日―角川春樹獄中俳句

海鼠の日―角川春樹獄中俳句

「足の爪切つて残る日数へをり」
「晩年のなかりし父よ雑煮椀」
「夢の世の海鼠となりて三日かな」
「わが骨に雪降る夜の鉄格子」
「書かれざる遺書もあるべし十三夜」
「われもまた過客なるべし春の暮」
「獄を出て花の吉野をこころざす」
わが子キリスト (講談社文芸文庫)

わが子キリスト (講談社文芸文庫)

「群像」2010年1月号「〈特集〉戦後文学を読む〔2〕武田泰淳」とあわせて読む。何か感想を…と思ったけど、どうも鼎談にひきずられてしまうので止める。鹿島田さんの「受肉」の話に膝ぽん。息子が父親になる/なれない話は数あれど、この小説では父親が息子になり代わり、しかも「足なえ」の幼児を歩けるようにするという奇跡を起こす。痛みからくる幻覚、もしくは息子への愛情ゆえの捏造か。暗に悪意をこめた信仰告白か。謎めいた結末にも確かに「両義性」が宿っている。
「王族と異族の美姫たち」「揚州の老虎」を併録。
宮沢賢治ペンネンネンネンネン・ネネムの伝記』(金の星社)も読了。ホロタイタネリ、ペンネンネンネンネン・ネネム、シグナレスなどの不思議な響きを持つ名前や擬音の多用から、宮沢賢治は耳の良い小説家だと思った。が、2頁きりの小説「家長制度」では、他の童話と違って音も声もかき消されている。「大黒柱」の切れ端のような「主人」が支配する家では、客の「私」でさえ余計なことがいえないほど息苦しい、静粛な雰囲気がたちこめている。私はしばしば視界をさえぎられる。主人やその家族が何をしても、どこか遠いところで起きたできごとのように、「らしい」としか感じとれない。息子たちは音もなく帰宅し、厩の近くで気配なく眠っている「らしい」。「一人の女」が洗濯し、食事のしたくをしている「らしい」。女が主人の妻か下女かは明らかにされない。座りこむ主人と対比される、命じられるがまま家のなかで立ちはたらく女であるとしか知れない。ふいに皿を落とした音がする。主人はその方へ歩いていき、またもとの場所に座る。女はぶたれた「らしい」。主人が音もさせずに殴ったとわかるのは、「土間がまるきり死人のようにしずか」だから。音のなさもやはり音のなさでわかるのである。そして私は「まったく身も世もない」心地で、暴力的な沈黙に耳をすますしかない。題名にストレートな制度批判をこめながら、実際には何もできないでいる者の虚無感をたたえた、悪夢のような掌篇。
他に「タネリはたしかにいちにち噛んでいたようだった」「カイロ団長」「楢ノ木大学士の野宿」「シグナルとシグナレス」「ガドルフの百合」「或る農学生の日誌」を収録。