『ニュー・ゴシック ポーの末裔たち』

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鈴木晶・森田義信編訳『ニュー・ゴシック ポーの末裔たち』読了。
編訳者あとがきを要約すると。ミニマリズム(ニューリアリズム)は、自分の目に見える範囲の日常だけをこと細かに写生する。対してニューゴシックはミニマリズムが回避しがちな「呪われた部分」、現実の中の隠された「闇」に挑む。いわば知の届かない魔の領域を注視する。元々アメリカ文学にはポーやホーソーンなどのゴシック的伝統があるが、ニューゴシックにはそれらが内包していた「道徳の勝利」「魂の救済」などの説教臭い主題はない。そのような「大きな物語」からは既に切断されている。またスティーヴン・キング、クライヴ・バーカーのようなモダンホラーとも区別される。モダンホラーは「闇」にわざわざ吸血鬼やゾンビと名づけて血肉を与える。どれほど残酷な身振りが描かれようと、結局は理解可能な恐怖を読者に提示する。ニューゴシックは掴みどころのない「闇」そのものを深化させる。
以下、三作品をつまみ読み。
パトリック・マグラー「監禁」。「わたし」は子供の頃から刑務所の看守になりたいと夢見ていた。悪を忌み嫌い、社会から隔離すべきだという信念から南ロンドンの専門学校に通うが、刑罰史の講師パーキンズから「ベンサムの円形刑務所」について教わるうちに、彼に激しい興味を持つ。家庭をも監視し、彼が不倫していると知ると、悪を抹殺せんとする意志と、彼の娘に対する憐れみからある事件を起こす…。尋常でない将来の夢や積極的な孤立、ストーカー行為、年老いた父母をこまめに世話しながら二階の部屋に錠をつけて監禁したりと、「わたし」を得体の知れない陰を背負う変人とみなすのは簡単。でもふと我にかえったように常識に追随し、母親を優しく慰めたり講師に理解をしめそうとする、堅苦しく平静さを保った語りにこそぞっとする。
ジーン・リース「懐かしき我が家」2ページの超短編。よく晴れた日、彼女は川を渡って一軒の家にたどり着く。以前彼女が住んでいた家。表面上はほとんど変わらないが既に新しい住人が根づいている。マンゴの木の下にふたりの子供が居る。声をかけても子供たちは無視して家へと駆けこむ。そして彼女は致命的な変化に気づく…。頽廃を好むゴシックにはそぐわない、のどかな風景描写に驚かされる。硝子のように澄んだ青空。強い陽射し。白く塗られた家とマンゴの木。無邪気な子供たち。この小説がニューゴシックとして選ばれた理由は結末でわかるが、透明なファンタジーという印象は変わらない。けれど彼女が得たほんものの孤独もまたゴシックの本質といえる。
アイザック・B・シンガー「敵」。第二次世界大戦時、ユダヤ人のチャイキンは船でニューヨークへと旅だつ。他の外国人客を避けて食堂でくつろごうとするが、何故か専任のウェイターに毛嫌いされて食事もまともにできない。人種差別のせいかと疑うが、他のユダヤ人一家には親切に給仕しており、いっそうわけがわからず憂鬱に飢えるばかり。晩餐会の夜、チャイキンはデッキで「敵」と対決する。黙々と取っ組みあいをするうちに疲れて意識が朦朧とし、不意に「敵」を海へと放り出したような錯覚に陥る。そのまま一眠りしたあと食堂へ行くと、新しいウェイターに前任者のことをたずねるが言葉が通じない。その後二度と「敵」と会うことはなかったが、チャイキンは、自分に対する理不尽な憎しみにいつまでもとらわれていた…。時代状況、民族感情を根拠とする差別でもない、個人への闇雲な嘲笑や悪意だけが先んじてある。しかもそれをぶつけてくる「敵」は自分とほとんど接点がない。通り魔の犯行みたいないじめ、というと意外にありふれたできごとのようにも思える。妙なのはチャイキンの旧友、オカルト好きな語り手が「敵」をエーテル的存在、「星気体」だなどと名づけて理性的に(?)納得させようとすること。もちろんニューゴシックにおいては、「星気体」でもなんでもいいが、言葉ひとつで「闇」をまとめきれるわけがない。この能天気な語り手との馬鹿げたやりとり以外にも、所々に黒い笑いを散りばめてあるのも面白い。

ニュー・ゴシック―ポーの末裔たち

ニュー・ゴシック―ポーの末裔たち