『家族の終わりに』と『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』

誰が書いていたかは忘れたけど、アメリカの小説には、夫婦間の不和を扱った小説が多いとか。
リチャード・イエーツ『家族の終わりに』もそのひとつ。
主人公は、オフィスマシンを売るサラリーマンの夫と、女優志望だった過去をもつ専業主婦の妻。丘の上の小さな白い家で平穏に暮らし、子供は二人。近所の住人には、若くて聡明な美男美女としてもてはやされ、夫婦自身も他の、郊外に住む退屈な連中と違って、特別な存在でありたいと願っている。だが、妻が出演した素人演劇が大失敗に終わったのをきっかけに夫婦は衝突、世間一般に埋没するばかりの現状をみつめ直す。そこで妻は欧州行きを提案、これからは自分が働いて一家を養う、夫には、職を捨てて自分探しでもするよう勧める。今の仕事に嫌気がさしている夫は、この「革命的」な提案をすんなりとのむ。隣家の友人夫婦や不動産屋の老夫婦、職場の同僚などにも堂々と打ち明け、理想の新生活に思いをはせる。
だが出発前、夫は上司から昇給も見込める、やり甲斐のある仕事をもちかけられる。更には妻が妊娠したと知る。元々妻は、最初の妊娠からして、時期を外した望まないものだったと考えており、今度のことも、夫婦の再出発に対する障碍と捉え、ひそかに自分の手で中絶しようとする。夫の説得もきかず、表面上は計画を中止したようにふるまうが、致命的な衝突を重ねるうちに、遂には自分が何者なのかさえもわからなくなり、夫への愛憎を深めながら破滅へと突き進む……てな話。


自他ともに認める理想の夫婦が、〈普通〉の枠外へ飛び出そうとして、結局は〈普通〉に足もとをすくわれ、生死ごと回収される。幸福は気のもちよう、流れに沿って生きるしかないという諦念に抗おうとする、夫婦の遅れてきた青春は、はじめから躓きを内包しており、誰にも(自分たちさえも)しんから祝福されない。狂気からもはねつけられ、最愛の人を失ったあとには反発する余力もなく、嫌悪していたはずの退屈な連中に紛れこみ、身近な他者の記憶やお喋りのなかに、退屈しのぎの悲劇として葬り去られるしかない。つまるところ、これは〈普通〉の夫婦の物語だ。彼らと倦怠期の友人夫婦、狂人の息子を抱えた老夫婦との違いは、二人そろって無事「生きつづける」かそうでないかだけ。
夫婦が喧嘩する場面では、罵倒こみの本音が飛びかうが、落ち着いて会話しているときは、異常なまでにお互いを気づかい、優しく同意し、褒め殺しのような賛辞をかわす。本文中でも言及のある、ヘンリー・ジェイムズの小説を思わせるまわりくどい科白は、善意の配慮ではなしに空虚さ、殺伐とした緊張感につながる。話はとめどなく噛みあわず、最後の朝食における会話では、天気や料理、会社についてなど自然らしさを装いながら、破綻の予兆がそこかしこにある。この美しい会話が、〈普通〉であろうと足掻く夫婦の断末魔のようで、感動と恐怖を誘う。
この小説を映画化し、『タイタニック』コンビが再び組んだと話題の『レボリューショナリー・ロード/燃え尽きるまで』では、効率のよい省略が随所にみられる。素人演劇の内実は全く描かれないし、夫が浮気相手に別れをつげる場面、その友人の女に夫が差別的な文句を投げつける場面もない。対して映画版のラスト、友人夫婦の妻が「もうこの話はしない」としおらしく誓うが、小説ではゴシップの種として、懲りずに喋りつづけるだろうことを暗示している。こちらの方が、友人の妻の、〈普通〉の欲望を活写しているように思う。
映画で最も印象に残ったのは、夫婦が喧嘩し、妻が森に逃げる場面。森と白い家は、夜明けの青白さに浸され、夫婦の決別を象徴する。そして最後の朝食。白い家はあるべき白さを取り戻し、家族の肌も白く輝き、喜びに満ちている。懲罰ともいえる、鮮血の赤が流れ落ちるまでの、一刻の猶予もない光景。傑作。

家族の終わりに

家族の終わりに