プリーモ・レーヴィ『天使の蝶』他

片岡義男吉永小百合の映画』
ティエリー・ジョンケ『蜘蛛の微笑 (ハヤカワ・ミステリ文庫)』
笙野頼子『パラダイス・フラッツ』
プリーモ・レーヴィ『天使の蝶』
吉永小百合の映画』。デビュー作『朝を呼ぶ口笛』から『キューポラのある街』までを論じる。鶴の恩返しや卑弥呼映画の感想はなし。卑弥呼といえば、志麻姐さんの主演作。河原崎兄弟が揃って出ていて、あーやっぱ似てる、と思った記憶しかないけど。閑話休題。本書は、「知っているようでいてじつはなにひとつ知らない、女優・吉永小百合」を発見するための、時間旅行記といえる。あらすじを紹介するだけでなく、六十年代前半までの東京のスケッチ、日活アクション、小百合をふくめたスターに対する、繊細な考察が読み応えある。二十八本のうち、もっとも異色と思われる出演作、『まぼろし探偵 地底人襲来』をみて、「まろやかに熟成したおだやかで温厚な展開のコメディ」と受けとめ、「これに接して僕の顔は微笑へとほころんだ」とあるけど、「まぼろし探偵」の空飛ぶオートバイを欲しがる著者には、こちらも「微笑へとほころ」ぶ。『すべてが狂ってる』のような、どうしようもない映画のフォローのしかたも参考になる。
『蜘蛛の微笑』。乱歩の蜘蛛男も表の顔は名士、裏ではお気に入りの美女をかき集めては惨殺する淫乱野郎だったけど、こちらのフランス産蜘蛛男は、外科医で金を持て余しており、「餌食」を監禁し辱めながらも上等な「女」に仕立てる、なんとも手のこんだ遊戯にはまっている。「餌食」の暮らしぶりは一見、羨ましい。豪奢に着飾り、旨いものを好きなだけ食べ、充実した余暇を過ごせる、ゴージャスな奴隷生活。が、主人の機嫌が悪いと撲られ、他の男と寝るよう強要される。絶望的な状況が、永遠につづくのではと怖れる「餌食」の苦悶を、二人称の語りが追う。なぜ独白ではなく二人称なのか。それは読者に、不必要に同情させないための壁を築くため。終いには、被害者が実は加害者であり、凌辱じたいが無自覚な復讐劇だったと知れる。この転倒が楽しい官能ミステリ。
『天使の蝶』。『アウシュヴィッツは終わらない』の著者による風刺SF短篇集。機械の発明や動物の進化により、地位を脅かされながらも悠長に構え、いっそう文明に依存していく人間たちを、風刺にありがちな説教臭は薄く、穏当なユーモラスをもって描く。ふしぎなほど性に関する直接的な言及を避けていて、「《ミメーシン》の使用例」なんて、夫が二人の細君をもったら、やることはひとつだろうに……と「肉食系」風に思ったりもするけど。邪念。
「記憶喚起剤」が、カフカの不条理と叙情性を引き継いでいて好き。
「訳者あとがき」をメモ。強調引用者。

「解説」でも触れられているように、化学者でもあり作家でもあったレーヴィは、半身が馬で半身が人間のケンタウロスに己の姿を投影していた。作家としてのレーヴィの半身には、しかし、さらにふたつの魂が共存していたようだ。アウシュヴィッツの「生き残り」として、体験を書かずにはいられなかったレーヴィと、純粋に創作を楽しんでいたレーヴィだ。このふたつの行為は、彼自身のなかでも明確に区別されており、「見たことを書くことは、創作よりも簡単であるが、それほどの幸福感を得ることはできない。[中略]小説を書くことは)いわば書くことを超越した行為である。もはや地に足をつけておく必要はない。あらゆる感情や感動、恐怖とともに、空へと飛び立つようなものだ。それはちょうど、布と紐とベニヤでつくった二翼の飛行機に乗った、開拓者の高揚感にも似ている」(「小説を書くこと」『他人の仕事』より)と語っている。