対談「戦後文学2009」高橋源一郎+奥泉光(「群像」8月号)
本当にメモだけ。当代随一の書き手であり読みの巧者でもあるお二方が日本文学とひとくちでいえども漱石太宰村上だけじゃないよ他にも豊饒な土壌があるよと説くシリーズの前夜対談。
後半は楽屋トークみたいなものなので省略。
・企画の理由
奥泉 ぼくが戦後文学を読み返すという企画をやったほうがいいと思う最大の理由は、日本語で書かれた小説のなかで、いまなお最も批評性が高いのが戦後派だと思うからです。
その批評性がどのようなものであるかは、もちろん簡単にはいえないし、作家ごとに当然異なる。戦後派が何を敵としているかと問うてみて、たとえば天皇教だとか、日本的空気だとか、そういう言い方をしてしまえば簡単かもしれない。しかし、これもそんなに簡単なものじゃないでしょう。とはいえ、いわゆる日本的な言語空間というかな、そこに対して批評的であろうとした人たちであったことだけは間違いない。きわめて意志的に、というか、方法的に近代以降の日本的な言語空間に切り込もうとしたのが戦後派であるとはいえると思います。
・埴谷雄高『死霊』
高橋 ご存じのとおり、日本語で観念を描く究極の小説になっているんだけれども、何でおもしろいかといったら、登場人物たちは密室にこもっての議論ばかりしている。前にもいったことがあるんですが、これは今のインターネットや「ひきこもり」と呼ばれる人たちのあり方とすごくよく似ている。今読むと、よくわかるんですね。つまり、当時はそんなふうに読まない。「ひきこもり」という言葉もなかったし、インターネットという暗い、だれもが交通できる空間でコミュニケートするという考えもなかったわけです。
ところが『死霊』を今読むと、そういうことをどうしても想像させるような小説になっている。別に埴谷雄高がそういうふうに考えたのではなくて、そういう構造だったんですね、ユーモアも含めて。今読むと、すごくおもしろい。政治的な問題がリアルだったころには、空虚だといわれた。つまり、何かよくわけのわからない話を、政治活動から落ちたやつが勝手に延々と何千ページもやって、あほかいなということです。革命の実効性がリアルさを失った後に、あの小説は逆にリアリティーを増してきた。ということは、ぼくだちは時代的には、ちょっと遅れて読んだのだけれども、戦後文学を当時の読み方で読んでいたわけですよね。政治と文学の対決とか、観念と現実、そういうふうに読んで、よかったとか、いや、つまんないよとかいっていたわけだけれども、今は読み方自体が変わらざるをえないわけですね。
・戦後派も無関心ではいられなかったはずの「商品としての小説」問題
「文芸漫談」太宰の回でも話題になっていた。
奥泉 例えばこういう考え方はどうですか。つまり、作家はテキストをつくって、それを読者が読むわけだけれど、テキスト主義的な立場に立った場合、読むことも書くことと同義のクリエーションなんだといわざるを得ませんよね。単なる活字でしかない、インクのしみにすぎないものから一つの小説世界を立ち上げるという創造的作業を読者は行っている。で、作家の創造的作業に対しては一定の対価が払われるのに、読者の創造的作業に対しては対価が払われない、というか、むしろ読者はお金を払う。この不均衡はどういうふうに考えたらよいだろうか。
高橋 自分が本を読むときのことを考えればいいんですが、読者は生産と消費の両方をしている。つまり、読むということ自体は消費だけど、その消費は同時に生産過程といえる。『資本論』ですね(笑)。生産しているものは、目に見えないものになるわけです。読者の中に原始的蓄積として資本がたまっていく。それがどのようにまた使われるかについては我々は感知し得ないけれども、読者の原蓄に供与している。
(略)
読者は基本的には消費と生産を同時にすることだ。ともすると、消費しか見えない。作家はある本を読んでそれをネタにして書けば生産になるから、具体的に消費と生産が見えるけど、作家になる前の無償の読書っての? あれは生産を伴わない読書ということになってる。でも、それは作家になってから生産に生かされている。だから、原始的蓄積をしているというのがぼくの説なんです。
(略)
じゃ、作家にならない人間は原蓄がないのか。ぼくは、そうは思わない。それがどういう形で蓄えられて、彼の中で別の形で消費されるかはわからない。だから、一時的にある本を消費するけど、そこから得た生産物をまた何らかの形で消費するのではないかと希望する、そういう形になっている。
・戦後文学の潔さ
高橋 現代詩に「気風」という稲川方人さんがよく使う言葉があります。現代詩とか戦後詩といわれるものの一番の特徴は、強い否定性です。この世界にノン、革命だ、という。いまは、なかなか恥ずかしくていえないことです。でも、戦後詩にはそういう気風が、ある、というか、あった。それは埴谷雄高も、そうだったと思います。世界全部を否定するとか、一つ世界をつくって全部壊すとか、それぐらい強い否定です。これはもちろん基本的には戦争というノンに対して、生者、生きている側からのノンを返すということでひっくり返す、そういう論理になっていると思います。
これは確かに今は理解しにくいし、ぼくのような五一年生まれの人間だって、ノンという気持ちは理解できるけれども、それをやってきたゆえんは、もはや理解できない。奥泉さんもぼくもモダンの後の作家ですから。モダンとは強い否定なんです。モダンの後、強い否定というのはいかがなものか。そんなこといってないで、相手をうまく丸め込んだほうが効率的ですよ、というのがポストモダンなわけですね。全部壊したら使えないじゃん。だまされたふりをして使えるものは使いなさいというのが、ポストモダンの論理です。全否定じゃない。部分否定、部分肯定、それで、表面上はうそをつく。だから、戦後文学の潔さみたいなものが、うらやましい。若々しいし、すがすがしい。
(略)
逆風が強いほど、当然飛行機は上がる。風がやんだら失速する。だから、恐らく戦後派は、戦後という風がやんだときに失速せざるを得なかった。
しかし、戦後文学がやってきたことがすべて古いとか、今使えないとか、読むにたえないであろうというふうには思えないんですね。
・現代文学との共通点 読みかえる意義
高橋 何年か前に、絲山秋子の『逃亡くそたわけ』(二〇〇五)を読んで、どこかで似たような小説を読んだなと思いました。考えてみたら、梅崎春生の『幻化』なんですね。
奥泉 梅崎春生かあ。今読んでどうなんでしょう(笑)。
高橋 おもしろいんだよ、これがまた、実に。
両方とも、九州に行く話で、絲山さんにも聞いたけど、『幻化』は読んでないそうです。『幻化』は頭がおかしくなったやつが、阿蘇の火口まで行き、別の自殺志願者がその火口をさまようところを遠くから見ている、そして、それが自分なんだという気分になるという小説です。当時は戦後のある特殊な時期のある特別な恐怖にさらされた人間の心象風景と解釈されていたのが、今読むと、現代の若者の不安な感覚と全然変わらない。戦争というバイアスを外して読んでも、おもしろい。笑っちゃうんだよね。そういう死の恐怖にさいなまれる人間の行動が、クレージーでユーモラスに描かれている。そこが、絲山さんと梅崎春生は共通しているんです。
奥泉 大岡昇平の『野火』にしても、人肉食をはじめとする戦場の悲惨というテーマがあって、そこを中心に読んでしまうけれど、実際おもしろいのはそこではない。しかし、昔はぼくも、人肉食にまで至ってしまうような戦場の悲劇を描いた小説なんだ、というコードの中で読んでいた。そのコードから解放されて読むと、全然違う世界が見えてくる。