ニーナ・サドゥール「空のかなたの坊や」(「新潮」6月号)

訳者の沼野恭子によれば、ニーナ・サドゥールは「ロシアで最も謎めいた作家」と目され、ゴーゴリの『死せる魂』を下敷きにした戯曲も書いているとのこと。「坊や」も『鼻』『外套』のようなどたばた喜劇だが、それら以上に捉えどころがない奇想と思索に充ちている。「厄介な国」ロシアを舞台とし、宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンや、国を統治する「腹黒い」老人ブレジネフなど実在の人物を登場させるのも、奇想をリアリズムで裏打ちするための接着芯みたいなもの。
物語はガガーリンの母親を自称する語り手と、彼女が暮らす共同アパートの住人の狂騒的なやりとりで構成されている。彼女は色鮮やかな魚やバラの造花を眺めながら平穏に生きていたが、カフカス人の無茶な訴えを市議会が認めたことで、アル中の庭番とともに住まいを追い出されるはめに……というのが表面的なあらすじだが、彼女を含めどの人物も頭がいかれているとしか思えず、言動を信用できない。他人への配慮もない。庭番と住所不定カフカス人は、常に叫びながらものを言い、いがみあいながら笑う。邪魔者を放りだし、自分たちは結婚してこの地に居座ろうとする。貧しい人々と外国人が陣取りをしている、実在の惨状に通じるハナシ。語り手は、別に差別意識はないらしいものの、カフカス人の肌黒さを素朴に疑い、相手を憤激させる。あたりまえ。宇宙の無限の黒さと肌黒さを結びつけるような、退屈しのぎの妄想が理解されるわけがない。息子を失い、誰からも見離されようとしている彼女の孤独、正当な哀しみも、内にこもるばかりで共感を得ない。
混乱の末、彼女は完全に現実を見捨てる。宇宙の無限から遠く離れて「地球の心臓部」へ、万人の生まれ故郷である地球の内側へと降りたとうとする。「空のかなた」とは息子をさらい、彼女を永遠の憂いに沈めるもの。だが、地球の心臓部なら「不滅の生命をつかさどる源泉」であり、生きた人間も死者も共存できる。争いも憂いもない、歓喜の炎のなかで生きられるにちがいない。このけったいな考えを押し進めたあげく、彼女は孤独から逃れるべく他の連中をも巻きこみ、自分を追い出そうとした者の息子に凶器を投げつける。破滅へといたるクライマックス。なのに彼を宇宙船だと思いこみ、そのまま地球を降下できると考える突飛さが残酷なおかしみを生んでいる。バラとマグマと血、宇宙船の噴射口から噴きでる炎がひとつになるイメージの畳みかけも鮮烈だ。
息子を殺された母親が他人の息子を殺すという、暴力の飛び火を描きながら奇想でくるむことで血生臭さをふるい落とし、不思議な爽快感をもたらす小説。