笙野頼子『おはよう、水晶―おやすみ、水晶』

戦闘的な身辺雑記。
神話や宗教(西哲も…)の知識がないため、「おんたこ」三部作など近年の小説にはわからない部分も多々あったけど(設定の風刺自体は楽しめた)、これは読めた。観念的な私小説の体裁を取りながら、自在に文章を変転させると同時に怒り、祈りをこめて世界を歪ませ、ヒトトンボや権現などの人外の存在を幻視するという、笙野作品ではおなじみの光景で、安心して親しめた。
本作にははじめ、森茉莉を思わせる可憐な「風景」描写があるが、語り手はそれらが幸福の外側にひしめく「マイナスの感情」によって支えられていると打ち明ける。数々の論戦や受難を苗床に培われたもの。ネットを積極的に利用することで闘争領域も拡大した。自分の作品の真摯な読者である「仲間」も得たが、彼らさえ巻きこんで受難は続く。次々現れる敵は質が低下する一方。
敵方のどーしようもない行為を並べると、「紳士」による訴訟騒ぎ。自称腐女子ライターの卑劣な中傷。「女流」であることを誇りとするかのような快楽猫殺し。言論統制。性行為だけが女性の「身体性」を表現するといわんばかりの、「左翼」の噴飯ものの言動。「ニュー評論家」の読まず御用評論。「海底八幡宮」に登場するストーカー、「白山黒尼」のモデルと思しい女性からの怪電話など、枚挙にいとまがないってやつで。
語り手は残さずひっぱたき返すが、相手の名前は出さないところに(大物柄谷は名指し、最終章でもちょろっと明記してある)、小説家を取り巻く言論空間の不気味な不自由さがみてとれる。それでも、レッテル貼りも辞さない毒舌交じりではあるが、もどかしいほど曖昧さを尽くして厄介事の経緯を説明しながらも、冷静に筋を通そうとする荒業、その透徹した意志にいつもながら驚かされる。読者は怒りと悲しみの奔流にのまれ、事の真偽を探るより先に、抑圧に抗う闘志を分け与えられる。論敵のすっかすかな言動を調べた後では尚更、「極私的言語の戦闘」に共鳴したくなるのだ。
闘志を礎に語り手が緻密に紡ぐ日常や夢の記録も、一見淡々としているが、いつ病や死によって崩れるとも知れない緊迫した不安、救済への願いを底に秘めている。飼い猫たちとの一軒家での暮らしと、若い雌猫の死を語る場面もまた「戦いの記録」であることに変わりない。情に溺れて言葉を濁すような見苦しい真似は一切せず、より熱を増した明晰な語りが猫の死と、心の中に「所有」しながら喪に服すさまを真直ぐに捉える。最も感動したのは、残された他の猫たちが健やかに暴れる姿だ。甘え好きだが抱っこが苦手な雄猫は、いつも語り手の膝にかけのぼるようになる。老猫は死んだ雌猫が好きだった猫缶を常食し、彼女に代わって頼もしく返事する。毎日枕の横に来ては後ろ足で人の頭を蹴る。「仲間」の死に呼応し、いままでにない行動を取る猫たちはうるさくも愛らしく、権現以上に神秘そのもの。この馴れあいにとどまらない、難儀だが論敵との対決などよりは遥かに大事な戦いが、できる限り続いて欲しいと思った。

おはよう、水晶―おやすみ、水晶

おはよう、水晶―おやすみ、水晶