芥川比呂志エッセイ選『ハムレット役者』

おやじさんより好きカモー、というわけでメモ。メモという名のお手軽引用並べ。
丸谷才一渡辺保いわく「伝説」化したタイツのおはなし。
ハムレットを演じるにあたり、黒いタイツを穿く必要がある。が、激しく動きまわるたび、腰に帯びた剣の鞘飾りがタイツにひっかかり、ほつれ、大きな穴があく。木綿も、特注のナイロンのタイツも等しく破れる。やむをえず、用心と貧乏性のために二枚、三枚と重ねて穿いたのはいいが、その現場を人にみられたのが運の尽き。

「あら、いやだ。あなた、タイツを三枚穿いてるの」
子供のように眼を丸くした目撃者は、長岡輝子さんである。
数週間後、ある席で顔を合せた途端に、戸川エマさんがふと上品に笑い出す。
「何ですか」
「いいえ、なんでもないの。ただ、ちょっと思い出したものだから」
「何を」
「いえね、輝ちゃんがね、あなたがタイツを五枚だか六枚だか穿いてらしったって」
さらに数日後、私は明るい爆笑を浴びせられて、うろたえる。
「何だい、気持の悪い」
「君、ハムレットでタイツを十五枚穿いたんだってね。わっはっは」
「冗談じゃないよ、十五枚なんて」
「そんなもんじゃないか。じゃ三十枚か。わっはは」
これは故三島由紀夫氏である。
公演の終った後、ある日私は、これも今は亡い徳川夢声氏と対談をした。
「あなたはぁ、うふっ」
と、この話術の大家は、眼鏡ごしに私の顔を近々と下からのぞくようにしながら、さもおかしそうにこう言った。
「こないだのハムレットで、何だそうですな、タイツを、このう、無数にお穿きんなったそうですな。うはっ」
(「タイツ」)

・青森の実家(「桜の園」)に疎開中の太宰治を訪ねる。
はじめて会った太宰は「なんだか、眠そうな顔をしている。照れ臭いのだ」。
比呂志も照れる。「太宰流にいうと、こちらの方が十倍も、百倍も照れ臭く、恥かしく、わあっと大声あげて駆け出したいくらいである」。

太宰さんはしきりに話した。話して私の気持ちを楽にさせようとする風だった。太宰さんの話し方は、その小説中の人物たちの話し方とそっくりで、今でも私は太宰さんの小説を読むと、作者の声が聞こえてくるような気がする。肉声で書かれた小説、という気がする。
「この卓袱台は、津軽塗といってねえ。ひどい模様だ。模様なんてものじゃない。ただもう、無茶苦茶さ、なんの意味もない」
「新劇はだめだねえ。気分劇、なんていうから、なんのことかと思ったら、窓の鳥籠にカナリヤがいて、そいつがチュンと啼くと、男が女の肩に手をかけて『秋だねえ』なんて。いやだねえ。柱によっかかったりして。気障だねえ」
「新派か。あれは俗だ。なんだか、下品だろう。倶梨伽羅紋々のやつが、双肌ぬぎで、赤い人絹の座ぶとんを裏返しにして、チャッ、と音たてて花札やってるような感じがする。馬鹿だねえ」
「おれは役者にはなれないんだ。概念的な美男だから。あはは」
あの芥川の話も出た。父が晩年、体をわるくして、内側に毛皮を張った足袋をはいていたと私がいうと、「おしゃれ童子」の作者は、ちょっと沈黙した後、長大息して、おどけて答えた。
「思えば野暮な男であったなあ」
(「太宰治とともに」)

・太宰がかたる「創作の機微、小説のこつ」。

「岩見重太郎」
といい、私はなんのことやらわけが分らず、訊き返すと、太宰さんは笑いながら、
「武者修行で、妖怪変化を退治するじゃないか。闇夜に三つ目の大入道や、一つ目小僧や、化物がいっぱいあらわれる。いくら斬っても手応えがない。そこで、脇に立っている石の地蔵を斬ると、そいつがギャッという。古狸が正体をあらわして、化物どもの姿は消え、中空に月がかかる。あれさ」
(「太宰治とともに」)

・龍之介パッパのおえかき。「おばけ」の成り立ちを訂正するパッパがかわいい。

画帖には出て来ませんが、私もそういう「めづるばけものども」を描いてもらったことがあります。
「お父さん、絵を描いて」
「絵か。何の絵」
「おばけの絵」
「恐いぞ、おばけは。いいかい」
「いや、恐くないおばけがいい」
そんな問答を交したのを憶えています。笑いながら、それでも父は私の持って行った帳面へ鉛筆で、恐くないおばけを描いてくれました。
紙巻きタバコに翅がはえて、頭から煙を上げながら飛んでいる絵です。なるほど、ちっとも恐くないが、一向におばけらしい気がしません。
「なあに、これ」
「これはタバコとんぼ。タバコに翅がはえて、とんぼになっちまったの」
「ふうん……もっと描いて」
今度は花を描く。葉と、茎を描いて、それへ、やはり虫のような手足を描き添えます。
「これは」
「菖蒲ばったって言うおばけ」
そう言われればおばけには違いありません。
「ふうん……菖蒲に足がはえて、跳ねてるのね」
「そうじゃないんだ。ばったが跳ねてる内に、急に菖蒲になっちまったの」
「ふうん……」
何が何だかわけが分らないなりに、気味が悪くなって、おばけの絵をねだるのはそれでおしまいになりました。
(「父のこと」)

上記引用の他、芥川の命日に文士が集合、じゃんけんをして遊ぶ里見とん、蚊を叩き損ねる内田百けんらを点描する「河童忌」。また、幼年時代、働き者の母親、父親の墓、「もう一つの頭」かつら、加藤嘉滝沢修から教わったメイクアップ技術、欧米の名優たち、友人・加藤道夫と原田義人について。渡辺保が格好の「演劇の入門書」として勧める「戯曲を読む」など。巻末には丸谷・渡辺による「解説的対談」を収録。
ヒトコト感想。「気障だねえ」。