「霊魂」&『椿姫』

倉橋由美子「霊魂」(『ヴァージニア』より)。心臓の奇病をわずらうMは、婚約者のKに「わたしが死んだら、わたしの霊魂をおそばにまいらせますわ」と約束します。死期を間近にひかえて錯乱したためでなく、真剣に穏やかに、霊魂の行く道や本性、生前の食事がもたらす清浄さについて説いたりします。Kも半信半疑ながら、今後もMの霊魂に会えるという「愉しみに似た期待」をもちます。とうとうMの心臓がとまり、通夜の席で亡骸と対面したあとも、さほど感傷的に嘆くこともなく、風の音や池の面に気配をさぐろうとするけれど何もない。が、葬儀、骨揚げを終えた夜のこと。約束どおりMの霊魂があらわれ、Kの膝に猫のようにあがってきます。
「それは半透明の塊で、さだまった形はないようで、二、三歳の子どもほどの大きさのものだった。重さはあるともないともわからなかった」。抱きしめると手ごたえ、弾力、人肌のあたたかさもある。精神の容態を属性とするらしく、それにともない色、膨らみ、形もうつろいやすい。そのままKのそばに居着くと、他のひとの前では透明になって身を隠し、些細なことで機嫌を損ねたりします。Kが会社から帰るのを待つあいだ、暇をもてあまして本を読んだり、庭の花壇を転げまわったり犬や鸚鵡と遊んだり、部屋掃除など余計なことをしようとしてKをひやひやさせます。
Kは、霊魂などと夫婦同然の生活をしていては、いつか破滅するのでは、と恐れつつもみずから破滅の底に落ちこみたい気もして、霊魂を屈服させるべくしつこくまじわろうとします。霊魂も屈服することを望むようでいながら、目にみえて憔悴し、Kへの想いで気が狂いそうだと訴えます。「もともと霊魂は理性的」だから、気が狂うなんて異常。それでも、次第にMとしての記憶を失いつつあり、「時の風に吹きさらされて霊魂の個人性がぬけてしまう」「拡散して、稀薄になって、個人的霊魂から本来の、空間に縛られない霊魂に近づいていく」。このような不安の前では、「妄執の塊」と化すのも無理はない。
Mの霊魂は、いっそKも霊魂になるようにと勧めます。そうすれば、じかにまじわって「ひとつに融けることもでき」る。Kが同意すると、霊魂は早速ばら色の薄い膜となり、Kにとりついて窒息させ、からだから霊魂を吸いだしにかかる……てな話。

霊魂との純愛、というほどだらけたものでもなくて、そういった通俗的な物語に添いつつ、機知と観念の骨組みづくりに精をだす。霊魂の本性を明るみにさしだし、自在に戯れさせつつ小説空間に縛りつけます。怪談風味のおどろおどろしさもない。火がついても笑い転げる霊魂など、どたばたギャグめいた箇所もあってさらりと読めます。Kは倉橋の、またはカフカの小説の主人公でもいいのですが、いつもながら受身で流されるだけ。霊魂の妄執にふりまわされたあげく死に到るKこそ屈服したのだ、ともいえるけれど、Kが喜んで迎え入れたのかどうかは曖昧に伏せてあり、内面をつかめない。それこそがKという、霊魂よりも虚ろな人物の本性なのだろうな、と。
また、なぜ幽霊ではなくて霊魂なのか。高原英理「グレー・グレー」(「文學界」2008年10月号)に登場するような、腐りかけの女ゾンビではないのか。
ここでの霊魂は、SF小説のガス状の異生物を思わせる不定形なものとして描かれており、ヒトガタをしていない。対して幽霊やゾンビは、あまりにヒトガタに似すぎていて、まじわるにしても、性器同士の接触という呪縛からは逃れられない。共食いや吸血など、別の快楽のありようも考えられるけれど、霊魂の方が圧倒的。
霊魂は如何様にも変化できる。「女のからだの形」にも「世にも猥褻なものの形」にもなれる。余分なからだを捨て、ひとつに融けあうこともできる。一体化願望が性愛の本性だと考えるなら、霊魂はそれをやすやすと実現できる幸運な存在です。ただ時間がたてば「個人的霊魂」、生前の記憶を失うという縛りがあるため、一体化の喜びもそう長くは続かないだろうし、一体化すること自体、もはや人間臭くも性愛・純愛などとは呼べないでしょうが。

ヴァージニア (新潮文庫)

ヴァージニア (新潮文庫)

『椿姫』。作者はデュマ・フィス。アレクサンドル・デュマの私生児で「ブルジョア的道徳を説いたモラリスト」。
物語の主な柱は、宗教的情熱をまぜこぜにした愛情、娼婦という職業を蔑む父親との衝突・和解、ふられた男の嫉妬狂い、それになにより借金の算段。ロマンスとカネは表裏一体。
椿姫の由来について。高級娼婦マルグリットは、芝居の席などに決まってオペラグラス、ボンボンの袋、椿の花束を置いておきます。椿以外の花は持たず、月の二十五日間は白、残り五日間は赤と、日によって色を変える。訳者が鹿島茂の説に準じていわく、白は「営業可能日」「赤は営業不可能日」であると。「これは女性の生理の関係などから言っても妥当なことだろう」わかりやすい。花で隠した親切心、誘う側に都合よい配慮がモテの秘訣。ちなみに椿姫は胸を病んでおり、咳をしたはずみに血を吐いたりする。どうにも血なまぐさい〈清らかな処女にして娼婦〉です。そんな彼女と主人と奴隷ごっこをくりひろげる青年は、彼女の死後、もう一度顔を見たいといいだし、墓を移し変えるという名目で、警察立会いのもと棺を開けさせ、遺体と対面します。

それは見るもぞっとする光景だし、いまもそれを語るのも恐ろしい。両目はふたつの穴でしかなく、唇は消えうせて、固く食いしばった白い歯だけが見える。ひからびた長い黒髪がこめかみに貼りつき、両頬の緑色の窪みをやや覆い隠している。とはいえ、私はその顔にむかしよく見かけた、白いながらもほんのりとばら色に染まった肌の、晴れやかな面影を認めたのであった。

唇が跡形もなくなるまで腐敗しているのに、「晴れやかな面影」もなにもないだろ、と。でもこういった死の醜悪さやら穢れた赤のイメージが、聖なる娼婦の物語に光彩あたえてもいる、ってなにやらわかりやすい図式ですけど。

椿姫 (光文社古典新訳文庫)

椿姫 (光文社古典新訳文庫)