鹿島田真希「もう出ていこう」(「WB」vol.13)

語り手の「私」は女小説家。輔祭である夫とともに三年間、某教会の司祭館(教会職員用の「社宅」)に住んでいました。そこでは「社長」にあたる府主教座下から神学生まで、大勢が共同生活をしており、みな聖職者ながら上司に媚びるため、他人のゴミを漁ってでも蹴落とそうとするなど、陰湿ないさかいが絶えません。
なかでも私が「いささか狂気じみた、グロテスクな人間」だと決めつける「T神学生」は、嘘つきなうえに傲慢。アテネ大学で建築を学んだ、と言いつつ他所ではテサロニケ大学を出たという。酔っているとはいえ私を「マクリナ」と呼び捨てし、お前のようなぽっと出の作家に書いてほしくない、受賞作(『六〇〇〇度の愛』らしい)を読んだが、あれは私小説だろう、と書き手の私を無視した推測をさも事実のように述べたてます。
私はT神学生の言動から、中学の同級生を思いだします。ノリコというその少女は、自分のことを「俺」と言い、男言葉を使う。人気もまあまあ。これだけなら、女子校に居そうな男役の通俗的イメージをなぞっているだけ、といえるけれどノリコもまた天性の嘘つき、はったり屋でした。人気俳優とさも知りあいのように「大周? あいつ優しいよ」と呼び捨てにする。調べればすぐ判る同人作家の住所をアドレス帳に記し、友だちのようにふるまう。あげくは人気教師と自分が親密な間柄のように言いふらす。同種の変人ではあるけど、T神学生と決定的に違うのは、ノリコの場合「嘘すれすれのはったり」をかまし続けながら、女子の尊敬を集めたことでした。
T神学生は輔祭の夫に愛を告白します。「俺、本当にあなたの役に立ちたいと思っているんですよ。本気ですよ。関西でシャコタン乗り回している奴が、本気で人のためになりたいと思っているんですよ」。とはいえT神学生は以前、自分は埼玉出身だと言っていたし、奥さんの話では、シャコタン乗り回しは願望に過ぎず、実際にやっていたのはピンポンダッシュ。大差ないのはともかく、事実と違う。が、T神学生自身、本気で嘘を信じている。「まるで自分の嘘に自ら騙されているよう」に。
やがて私の夫が奇病をわずらい、数ヶ月働けなくなっただけでT神学生は、媚びる理由をなくして見離します。それだけでなく、教会的ヒエラルキーで少しでも優位にたつため、夫の病は寝不足のせいだ、仮病だと嘘を撒きちらし、私たち夫婦を追いつめます。
T神学生は卒業後、神父となり夫の位を追い越したあとも、輔祭は外食ばかりしている、小説の資料を貸したのは俺だなどという「妄想」に憑かれ、事実を歪め続ける。うんざりした私たち夫婦は、後ろめたさを感じつつも「もう出ていこう」と、引越しの準備をはじめる……てな話。


鹿島田さんにしては珍しく私小説の体裁を借りた、でもやはり反現実の妙味ある短篇です。物語は短篇らしく際だつ高揚、凝った構成もオチもなく、他作品に頻出する救済や赦し、性愛、醜悪なものへの耽溺といった主題も綺麗に省かれています。とはいえ、事実を直視せず虚構を信じる、狂気すれすれの人々、というのはお馴染みのもの。卑屈になりがちな女の独白と違い、無自覚に妄想に耽る変人たちを外からみつめる分、毒が効いていて笑えます。シャコタン乗り回しなどの嘘も奇天烈でおかしい。嘘だけでなしに、それを盾に自分の誠意を訴えるのだから尚おかしい。
二人の変人が断罪されるのですが、ノリコにかんする回想は少々、水増し感がある。嘘を信じこむ嘘つきという接点以外、取りあげる必然性を見いだせないし、T神学生の言動の方が有害だからこそ、狂気としては痛快。自分たら有名人や教師と関係深めてるかも、てな妄想、思春期の少女にはありがちなものじゃないんですかねえ(遠い目)。もちろん、私小説と決めつける、または盗み書きされたと怒るのも、ありがちな邪推ですが。「いささか狂気じみた、グロテスクな人間」の意外な凡庸さを知るにも格好な小説です。