李昂『夫殺し』

「豚殺し」を生業とする夫が嗜虐欲を満たすため、同時に自身の仕事への罪悪感を振り払おうとするように日々、妻に苛烈な「凌辱」と折檻をくわえる。そのたび妻は、周囲を圧するほどの叫び声をあげつつも、暴虐の激化を恐れて耐え続ける。既に両親なく行き場もなく、自分の稼ぎもない身ゆえ逃げることも叶わず、遂には飢餓と精神錯乱の果て、屠場用の刀で夫の身体を、夫の仕事をなぞるようにして血にまみれながら切り刻む……てな話。
夫が世間的には優秀な「屠夫」ではあるが内心、豚を殺すことに対する原罪の意識を抱えていたり、いつもは嫌悪している近所の女が首を吊ろうとするのを止めたり、浮気相手の女郎には優しい言葉のひとつもかける配慮もあるという、意外な繊細さをそなえた人物として描かれているのがこの事件の、物語の一筋縄ではいかない救い難さをさししめしている。「夫殺し」とは、フェミ系素材としてはなんともベタな(?)気がするが、巻末の作者インタビューによればそれも戦略のうちとのこと。

李昂 (略)中国は長い小説の伝統を持ちながら、夫を殺す女性は常に自らの姦通のためであり、女は性的不倫のためにのみ夫を殺すのだと描かれてきたのです。藩金蓮が西門慶と貫通し夫の武大を殺すという『水滸伝』『金瓶梅』はその典型的な例ですね。中国の文学は虐待に耐えかねて夫を殺す、あるいはその夫による妻や妾に対する虐待を保証する社会制度への反逆として殺人を犯すという女を描いたことはなかったのです。

また、なぜ「ヒロインは虐待の余り精神錯乱状態になったうえで夫を殺すのか、なぜその前に虐待に抵抗し意識的に殺人を犯さなかったのか。ヒロインは自覚して夫を殺し、フェミニズム宣言を語るべきである」(めちゃやなー)という、読者からの質問(不満)に答えて。

わたしの答は、そのような英雄的なフェミニストを描くことよりも、長い中国社会の歴史の中で培われてきた女性抑圧の現実、女には最後の抵抗さえ錯乱状態にならねば許されぬという伝統的中国社会の現実、その中で生きなくてはならない女の悲しみ、人間性を描きたかったから、というものでした。

夫殺し

夫殺し