鹿島田真希『女の庭』

語り手である普通の主婦が外国人女性に接近、回避を繰り返すうちに自身の傷を見つめなおし、赦しやら救いの契機をつかむ。母親に暴力を受けた云々の告白は、女の傷の普通でなさを強調するため、赦しやら救いの価値を高めるための彩りみたいなものだろう。でなければ、普通の主婦が抱える傷などたかが知れたもの、子供はなくとも優しい夫が居て、金はなくとも時間は自由に潰せるのに、まだ不満を持ち死を欲するのか、贅沢病だとなじられてもおかしくない。いやほんと、確実にリンチ受けるよ。
それでも書き手はあえて主婦の生をすくいあげ、さしたる事件も描かず、他人の内面の虚構化もふくめた自意識の運動だけを追う。狂気が波うつ「地獄」からの解放を賞揚する。主婦と外国人の哀しみを結びつけることで。ここまで考えぬかなければ、狂気の淵寸前まで行かなければ、自分さえ赦せない女こそあわれ。
まあでも、外国人が(同一化を極端に強いる)この国で生きて混ざることの困難さと、普通の主婦の生き難さをそうたやすく直結させてよいものなんかいな、という疑問は残る。劇中ほとんど会話せず回避してばかりで、想像力の助けを借りてようやくそんな、ノーテンキな上に独りよがりな認識に達した、わかったつもりになれただけじゃないのか、と。
とりあえずは「似ているけど、それぞれの他者として」という訳知りぶった、美しい言葉に希望をたくすしかないだろう……このおばさんの場合は。関係ないけど、隣に住むのがナオミじゃなくてその恋人の黒人男性マリオ、またはアジア系のメイド女性だったら、こんなに寛容に哀しみを共有しあおうとは思わないんじゃね、となんとなく思った。「中央マンション」とやら自体、マリオは知らんがメイド娘にはとても住めそうにないだろうけど。あと井戸端会議をやるのがゴミ置き場、というのは笑いました。

女の庭

女の庭