奥泉先生の「やさしい」翻訳論

10月26日付けの朝日新聞にて、奥泉光カフカ『変身/掟の前で他2編』(丘沢静也訳/光文社古典新訳文庫)について一文を寄せている。
「秋の読書特集 新訳で文豪を楽しむ」より。

 丘沢氏自身もいうように、「ではオリジナルに忠実な翻訳とはどういうものか」の難問は残るものの、読みやすさへの配慮が原作の持つ力を失わせる危険の指摘には耳を傾けるべきだろう。翻訳とは、外国語の異質なシステムにある言葉を日本語に移しかえるという、元来無理な作業をする過程で、日本語そのものを批評し、また日本語による表現の可能性を押し広げていく営みでもある。事実、日本語はそうやって鍛えられてきた。異質な言葉や思想の異質性が、親しみやすさと引き換えに批評の牙を抜かれたのではつまらない。硬い食べ物を軟らかく煮て食べやすくすることは、食物本来の風味を損なうばかりでなく、栄養も台無しにしてしまう可能性がある。といって「生」で供すればいいともいえぬので、そのあたりに翻訳家の苦心があるわけだ。
 何でもやさしいのがいい、という風潮があるけれど、翻訳は決してそうではないだろう。もっとも世の中には翻訳がいい加減なために読みにくい書物もあるから困りものだけれど、数ある日本語版『変身』はどれも訳者の苦労の跡がみてとれ、質が高い。安心して手にとってよいと思う。
(「「オリジナル」に迫る試み」)